なんでも写真館

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2025/12/04 07:31

いち、じゅう、ひゃく、せん、千林〜🎵

先日、京阪沿線にある大学病院に入院中の親戚を見舞いに行きました。

 

この病院から歩いて10分程のところにあるのが、ある程度の年齢の関西の方ならご存知であろう大阪を代表する商店街のひとつ、千林(せんばやし)商店街。

「いち、じゅう、ひゃく、せん、千林〜🎵」

デューク・エイセスの歌うテーマソングが今もアーケードに流れています。

 

流通革命の発祥の地

1957(昭和32)年9月、この商店街の中心にある京阪本線千林駅前に1軒のお店が開店。

店の名前は「主婦の店·ダイエー薬局」。

創業者は中内功。

※コチラの画像6点はネットよりお借りしました

2003年イオンに抜かれる迄の約30年間、国内小売業界売上首位を誇った「ダイエー」発祥の地が実はココなのです。

 

ちなみに1995年度には世界の小売業の中で売上高4位を記録。

現在の国内小売業売上高は1位㈱セブン&アイ・ホールディングス約11.5兆円、2位イオン㈱約9.6兆円。

世界のランキングでは1位ウォルマート、2位アマゾン、セブン&アイ・ホールディングス19位、イオン㈱22位。

 

※創業自体は1957年4月10日、資本金200万円で「大栄薬品工業㈱」を神戸市長田区片山町5-5に設立しています。

右側が京阪本線千林駅                   左側のドラッグストアの位置に「主婦の店·ダイエー薬局」があった

かつてはこの商店街内でダイエー、ニチイ(後にマイカル→イオンに吸収合併)、長崎屋、イズミヤというスーパーチェーンがしのぎを削り、個人商店とも激しく価格競争を繰り広げた為「日本一安い商店街」とも呼ばれていました。

 

※一般的に「千林商店街」と認識されているものは実際にはメインとなる千林商店街を始め、今市商店街、千三商店街、千林駅前あじな商店街、千林大宮商店街、旭通り商店街、森小路京かい道商店街、千林栄通商店街などが連なるエリアを指しています。

 

☕レトロ喫茶店

商店街のメインストリートから細い路地を入ったところに
年季の入ったメニューサンプルが並ぶショーケース

建物の外観はリニューアルにより結構新しい感じですが、一歩店内に入ると

昔ながらの街場の喫茶店

🥪ココの名物は野菜たっぷりボリューム満点のサンドイッチなんですが、お昼を頂いた直後だったので今回はパス。

🥞ホットケーキのセットを頂きました

40年以上前、私はこの商店街のある大阪市旭区内の府立高校に通学しておりこの界隈はいわば「庭」のようなもの。

曲がりくねった路地裏にある隠れ家のようなお店にも足繁く通った経験が。

 

帰りに立ち寄ったスーパーでバリスタズブラックがセール価格 2本確保しました
キリマンジャロと共にしばらくは楽しめそうです

ダイエー·松下戦争

※コチラの画像2点はネットよりお借りしました

 

イオンやイトーヨーカドーなどに代表される現在では当たり前のスーパーマーケットという業態は、高度成長期(1955~1973年頃)の初期においては一般的ではありませんでした。

 

中内は戦後の日本におけるスーパーマーケット(GMS)の黎明期(れいめいき)から立ち上げに関わり、近年の消費者主体型の流通システムの構築を確立させ、日本の流通革命の旗手として大きく貢献しました。

 

その後各地でスーパーマーケットが増加しごく当たり前の存在になる訳ですが、その過程に於いては軋轢(あつれき)を生じることも多々ありました。

 

また家電量販店などという業態がなかった昔々は、各メーカーの直営店やフランチャイズの系列店で購入するのが当たり前でした。

例えば東芝の家電なら東芝のお店でメーカー希望小売価格か少し値引きされた価格での購入。

現在のように各メーカーの製品がズラリと並んだ量販店で比較検討できるようになるのはもっと後のこと。

ましてやネット上でのショッピングなど夢のまた夢😅

 

🆚1964年(昭和39)年、ダイエーは「価格破壊」で消費者がより安価で商品が購入できることを目指し、ナショナル(松下電器=現パナソニック)の商品を当時のメーカー希望小売価格からの値引き許容範囲である15%を上回る20%引きで販売しようとしました。

ところが松下電器はダイエーに対して商品出荷を停止する対抗措置を取ります。

ダイエーは松下電器の出荷停止が私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)に抵触する恐れがあるとして裁判所に告訴。

松下電器の創業者であり会長の松下幸之助は「定価販売(小売希望価格)でメーカー·小売が適正利潤を上げることが社会の繁栄につながる」としてダイエーとの和解の道を模索。

一方、ダイエーの創業者中内功は「いくらで売ろうともダイエーの勝手で、製造メーカーには一言も文句を言わせない」という主張を貫きました。

ダイエーは1970年にPB(プライベートブランド)商品として「BUBU」の名の13型カラーテレビを、当時の価格としては破格の¥59,800という廉価で販売し人気を集めました。

しかしこの行動は松下電器との対立をさらに激化させることにつながります。

1975年以降、松下が中内を招き和解を提案するも中内はかたくなに拒否。

その後両者は何度か会見したとされますが関係改善には至らなかったといいます。

この「ダイエー·松下戦争」と呼ばれる対立は、結局松下幸之助没後の1994年に和解しています。

 

ダイエーは花王石鹸とも対立し、和解するまでの10年間は取引を再開しませんでした。

 

※この項、wikipediaより抜粋要約、一部図版などを補足しています。

 

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1 件の返信 (新着順)
黒みつ
2025/12/04 14:20

千林商店街といえば、中川家のネタが思い浮かびます🤣
おそらく同じ大学病院にお世話になったことがあり、通院帰りによく買い物していました。新設された方の病院に行くように言われてから門真・守口・京橋以降しか降りる機会は無くなりました😅